日航ジャンボ機墜落事故、「アントヌッチ証言」英語原文

日航ジャンボ機墜落事故に関する「アントヌッチ証言」。

日航ジャンボ機123便墜落事故
nikkojumbo123
日航ジャンボ機墜落事故 https://www.youtube.com/watch?v=ReowcEJu81I

日航ジャンボ機JAL123便墜落。1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行の日本航空123便ボーイング747SR-46(ジャンボジェット、機体記号JA8119)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称・御巣鷹の尾根)に墜落した。乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名。

日航ジャンボ機JAL123便墜落で亡くなられた著名人
坂本九(歌手)
北原遥子(女優・元宝塚歌劇団娘役)
中埜肇(阪神電気鉄道専務取締役鉄道事業本部長・阪神タイガース球団社長)
浦上郁夫(ハウス食品代表取締役社長)
塚原仲晃(医学博士・大阪大学基礎工学部教授)
辻昌憲(元自転車競技選手・シマノレーシング監督)
竹下元章(元広島カープ捕手)
藤島克彦(コピーライター)
緋本こりん(同人漫画家)

日航ジャンボ機JAL123便墜落で亡くなられた著名人の関係者
伊勢ヶ濱親方(現:清國勝雄)の妻子
吹田明日香(タレント)の母
ダイアナ湯川(バイオリニスト)の父(住銀総合リース副社長)※ダイアナ湯川自身の出生は、事故から1カ月後。
など。

日本航空JAL123便墜落事故とは
明石家さんまや逸見政孝、稲川淳二も当初は乗る予定だったが偶然搭乗を回避している。

さんまは当日、東京で「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)の収録後、当便で大阪へ移動し、当時レギュラー出演していた生放送番組「MBSヤングタウン」(MBSラジオ)に出演予定であった。だがたまたま「ひょうきん」の収録が予定よりも早く終わったために、123便をキャンセルし、ひとつ前のANA35便と推測される便で大阪に向かい難を逃れた。さんまは「ヤングタウン」では言葉を失うほどのショックを受け、内容をこの事故の報道特番に切り替える旨のみを話した。さんまはこの事故をきっかけに、新幹線で行ける範疇の場所(東京~大阪の往復など)へは飛行機ではなく新幹線を利用するようになる。

逸見は夏休み休暇に入り、実家のある大阪へJAL123便で家族揃って帰省するつもりであった。だが、「新幹線のほうが安い」という息子の太郎の助言と妻の晴恵が飛行機が苦手であった事から東海道新幹線へ変更し難を逃れた。

稲川は東京で番組の撮影終了の後飛行機で大阪へ入るはずだったがこの撮影に入る前からずっと体調が崩れていて翌日の朝一番の新幹線で大阪入りする事になり搭乗を回避している。またその番組のスタッフの一人で稲川の友人である和田浩太郎さん(36)はすぐにも別の用事で大阪に向かうために空港へ行き、本来乗るはずの便ではない早く大阪に着くこの便の席が手に入り、この便に搭乗、事故に遭遇して亡くなってしまった。

逆に、坂本九は事故前から日本航空に対し不信感を抱いており、飛行機による移動の際には全日空の飛行機に乗るようにしていた。しかし、大阪で知人の選挙応援を行う仕事で向かった際、運悪くJAL123便しか席が取れなかったため搭乗し、マネージャーとともに帰らぬ人となってしまった。

また、JA8119が事故を起こす直前のフライトだった、福岡発羽田行のJAL366便にも、運輸大臣や阪神タイガースの選手が乗っていた。

一般客も例外ではない。事故当日、滅多に遅延が生じないはずの東京モノレール(当時、京急空港線は羽田空港内まで乗り入れていなかった)が何故か遅れ、123便に乗り遅れて結果的に助かった人がいた。

一方で、キャンセル待ちが成功して123便に乗り込み、結果的に命を落とした人もいた。
…….

123便を支えた乗務員
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日本航空123便墜落 ボイスレコーダー:
「まずい」
「なんか爆発したぞ」
スコーク77」(スクォーク・セブン・セブン) SQUAWK 7700
オレンジエア

日本航空JAL123便の窓の外に見える「なにか」
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落合由美さんの手記、『新潮45』1986年1月号に掲載。
落合由美墜落の直後に、はあはあという荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。おかあさーんと呼ぶ男の子の声もしました。
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落合由美ヘリコプターの音が・・・。ずっと手を振ってたんですけど、でも、気が付いてもらえなかったのか、ここまで来ることが出来ないのか、と思いました。
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日航機墜落。助かった川上慶子さん話す。父も妹も直後は生存。
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川上慶子墜落した時は、大分多くの人が生きてはって、御父さんも咲子ちゃん(妹)も未だ生きてて、御話しててね。あっちでもこっちでも、がやがやと話し声が聞こえて来て・・・。

川上慶子(残骸から)抜け出そうとして動くと足が痛くなる。そう言うたら御父さんは動かん様になった。段々動かなく、物を言わない様になった。咲子ちゃんも吐いた物が喉に詰まる様な感じになる。『御婆ちゃんと、又皆で元気に仲良く暮らそうな。』と言って上げたけど、げえげえと言い出したと思ったら静かになって、咲子ちゃんも死んだみたいや・・・。廻りで皆が話してはった声も、段々聞こえなくなって・・・。

川上慶子(暗闇の中)ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、真上迄来て止まってホバリングみたいにして・・・。『ああーこれで助かるわ。』って皆で言ってたら、ヘリは引き返した。『これで場所が判ったから、又皆で沢山来て助けてくれる。』と話したけど、それきりで来ん様になった。その内、皆話さなくなった・・・。

幸せを掴んだ川上慶子さん
http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/3af1244c227aa673412f99309b8879fa
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自衛隊員に抱きかかえられる少年
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自衛隊員に抱きかかえられる少年
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日航ジャンボ機123便の飛行経路
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日本航空123便墜落事故乗客
救援隊の到着時に、現場で実際何人が生存していたのかについては、情報が錯綜した。生存者4名は発見から数時間は現場からのヘリ搬送が行われず、特に34歳女性と8歳女性の母子はたいへんな重傷で、猛暑の中体力を消耗した。捜索隊による生存者か遺体かの判別は、呼びかけたり叩いた時に反応があるか手で触って脈があるかなどで行われていた。生存者発見後に医師・看護師が墜落現場へ、ヘリで派遣、生存者4名が病院に搬送され、それ以外は遺体として藤岡市民体育館へ運ばれた。

JAL123便墜落事故-真相を追う-福岡講演のご報告/犠牲者の死を悼む
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/8d94bf4dc9858bd94d40f7860bb598b7
「群馬県上野村の墜落現場(スゲノ沢)へ向かう林道沿いには、1900年代半ば、かつて当地で林業が盛んだった時代の名残である、トロッコ列車の軌道の一部が撤去されず朽ち果てるままにされている。この周辺は事件発生以前から人が出入りしている場所だったのは明らか。墜落現場は林道終点からわずか2~3kmほど先

長戸沢造林小屋跡付近から三国山
http://www.k2.dion.ne.jp/~tnhc/nazomi/nazomi.html
・「休憩がてらにまで降りてみると、苔むした河原に赤錆びたレールが2本放置されていた。軌道に使われたレールらしい。やはりこの沢沿いに森林軌道が通っていたのだ。」
・「そこから左岸の斜面を進むと、建物のコンクリートの基礎部分やタイル張りの浴槽があり、近くには缶やビン類が散乱していた。それから河原には何かの木製の残骸やドラム缶類が廃棄されていた。その中をよく見ると、和式トイレの便器も無造作に放置されていた。これは、まさに昔ここで日常の生活が営まれていたことを示す痕跡だ*。」
…….

NHK木村太郎自衛隊から羽田の空港事務所に入った情報によりますと、横田基地から北北東の305度およそ60キロの地点で、自衛隊機のパイロットが火災を起こしている日本航空機を目撃した、という情報もあります。
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JAL123 日本航空123便墜落事故 各局ニュース速報まとめ
http://youtu.be/d5iSz4ynoSE?t=15m6s

NHK特報部午後7時19分に入間市にあります航空自衛隊の救難センターに入った連絡によりますと、アメリカ軍のC130輸送機のパイロットが、埼玉県秩父市の西北西およそ30キロの上空で、航空機らしいものが炎上しているのを目撃したという情報が入っていまして、航空自衛隊ではアメリカ軍などを通じて確認を急いでおります。
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JAL123 日本航空123便墜落事故 各局ニュース速報まとめ
http://youtu.be/d5iSz4ynoSE?t=18m45s

航空事故調査報告書
「62-2-JA8119 日本航空(株)所属 ボーイング 747SR-100型 JA8119 群馬県多野郡上野村」 25頁
また、救難調整本部は横田TACANから305度、35海里の地点に火災を発見した旨の米軍機(C-130)の情報を19時15分ごろ横田進入管制所経由で受領した。
http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/pdf/62-2-JA8119-01.pdf
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墜落から約20分後の19時15分頃、米空軍のC-130輸送機が、群馬・長野県境付近の山中に、大きな火災を発見と上空位置での横田タカン方位(305度)・距離(34マイル)を航空自衛隊中央救難調整所に通報。19時21分ごろ、航空自衛隊の百里基地を緊急発進したF-4戦闘機の2機も墜落現場の火災を発見して、上空位置での横田タカン方位(300度)・距離(32マイル)を通報した。
朝日新聞社『日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時』
事故調pp.25-28 人の生存、死亡又は負傷に関係ある捜索、救難及び避難に関する情報

防衛庁「米軍ヘリが現場上空に飛来した事実は認められない」
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米国防総省「当時の記録は残っていない」
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1985年当時の在日米軍首脳
「事故の当日かなり早い段階で日本の自衛隊が我々の援助を断った」
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米軍の救難スタッフ 米陸軍准尉エドワード・ガーザー
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番組ナレーション夜間に山岳地帯に降りられるのか。米軍の救難スタッフに訊いた。」
米陸軍准尉エドワード・ガーザー日航機墜落のような大事故が真夜中に発生しても我々はすぐ出動します。陸軍のヘリにはサーチライトはもちろん夜間暗視装置も80年代から標準装備されています。夜間など問題ではありません。急斜面への垂直降下ですか?救難隊なら誰でもできますよ。
日航機墜落事故 米軍幻の救出劇 (米軍パイロットの証言)
http://youtu.be/65krBx_Bblg?t=7m20s

米空軍大尉ジョン・グリフィン(日航機墜落事故当日アントヌッチが乗っていた米軍C-130輸送機の機長)
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番組ナレーション当日アントヌーチ氏と同じ輸送機に機長として乗っていたジョン・グリフィン氏は、現場の模様をこう語る。」
ジョン・グリフィン1時間ほど旋回していたらキャンプ座間から陸軍のヘリがやって来たんです。
番組ナレーション「アメリカ陸軍キャンプ座間には当時4機のUH-1ヘリコプターが常駐していたと確認されている。ベトナム戦争でも活躍したUH-1ヘリコプターは陸軍の救難活動には欠かせない。隊員1人1人が小型無線機を携帯し機体には物資や人員を吊り上げる装置が取り付けられている。」
ジョン・グリフィンヘリの乗組員はなんとかして隊員を地上に降ろそうとしていました。暗かったけれども、あの状況でロープを垂らして隊員を地面に降ろすのは十分可能だったと断言できます。
日航機墜落事故 米軍幻の救出劇 (米軍パイロットの証言)
http://youtu.be/65krBx_Bblg?t=3m8s

マイケルアントヌッチ 日航JAL123便墜落当時、米軍C130輸送機の航法士
日航機墜落事故 米軍幻の救出劇 (米軍パイロットの証言)
https://www.youtube.com/watch?v=65krBx_Bblg
michael-antonucci
…….

JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの(2)
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/acea0c09dd04784b61172500fc4edc23

■アントヌッチ証言全文

日航機事故から10年、米軍人コミュニティ向けの新聞「スターズ・アンド・ストライプス」の一面に突然表れたアントヌッチ証言とは何か?この証言の全訳文を米田氏の著書「御巣鷹の謎を追う」から引用します。少し長いですが、ぜひ読んでみてください。本証言の検証は次回以降に行います。


・一部を除き漢数字はアラビア数字に置き換えてます
・カギ括弧([])内の数字は、私が付け加えた段落番号です

——————————(ここから)——————————

「スターズ・アンド・ストライプス」の証言報道 1995年8月27日
(前文)
撤退命令が出ていなければ東京近郊の山中に墜落した日航123便事故の2時間後に、米海兵隊は生存者を救出できただろう。

(経歴)
1982年から90年まで米空軍に在籍したマイケル・アントヌッチ氏。現在はカリフォルニア州サクラメント市でインサイド・カリフォルニア誌の編集を行っているサクラメント・ビー紙とマイケル・アントヌッチ氏の許可を得て再録した。

[1]
10年前の1985年8月12日に、日航123便は本州中部の山間に墜落し、520人が死亡した。単独の航空機事故としては航空史上、最悪の犠牲者を出す結果となった。日本の救助隊の現場への到達が遅れたのではないかとの論議が起こった。最初の救助隊が日航機にたどり着いたのは墜落後12時間後だった。実際、もし日本当局を困惑させまいとすることがなかったならば、最初の救助隊(米海兵隊チーム)は墜落後、2時間以内に墜落機の捜索ができていただろう。生存者は4人だった。(しかし)それ以上の多くの人が助かったかもしれない。

[2]
123便墜落事故の余波(被害拡大)について、私は独自の見方をしている。事故当時、私はそのことについて「他言無用」の命令を受けていた。しかし、大事故から10年経過した今、私があの晩 、東京から西に35マイル離れた横田基地に向かう米空軍C130のナビゲーターとして見たこと、聞いたことを、話さずにはいられない。

[3]
当時、私は横田基地の空軍中尉だった。当日8月12日の午後6時30分ころ、我々は沖縄から横田に向け飛行中、大島上空にさしかかった。われわれは最初、日航123便の機長が管制塔に緊急事態を宣言したときには、さして気にもしていなかった。(なぜなら)軍では、緊急事態を宣言し、エンジンを止めて平穏無事に着陸することはよくあることだから。しかし、6時40分ころ、再度、日航機長の声を聞いた。その声は非常に動揺しており、管制とのやりとりは、航空の標準語である英語ではなく日本語だった。こんなことは、几帳面な東京管制官の通常の離陸管制では考えられないほど異常なことだった。

[4]
ずっと後日になって知ったのだが、123便は(垂直)尾翼と下部方向舵の一部をなくしており、操縦不能であって、高濱雅巳機長はスロットルレバーの調整のみで操縦し、高度を変えようとしていた。また123便は緊急降下が必要な緊急事態である急減圧が起きていた。同機は絶望的な状態だったのだ。

[5]
われわれは、周波数を横田基地に切り替え、オオクラでホールディングするよう指示された。旋回中に、横田管制が123便に横田基地への着陸を許可するのを聞いた。このときから、われわれは事態を真剣に注視するようになった。123便の緊急事態は相当に深刻で、目的地に到着できそうになかった。だから、めったにないことだが、当該乗員は米軍基地への着陸を希望したのだった。

[6]
横田管制は123便と交信しようとしていたが駄目だった。われわれにも(横田基地への)進入許可を出したが、ちょうど7時過ぎに123便がレーダーから消えた、と伝えてきた。そして123便を捜索できないかと聞いてきた。われわれは、あと2時間は飛べる燃料を持っていたので機首を北に向け、捜索に向かった。

[7]
管制では123便がレーダーから消えた場所をよく分かっていなかった。当機は、陽が長くなった夏の夕日が沈みかけていたころ、機首を北北西に進路を取った。午後7時15分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。御巣鷹山の周辺はとても起伏が多かった。地表からおよそ2000フィートまで降下する許可を得た。墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗くなり始めていた時だった。山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。

[8]
当機の指揮官、ジョン・グリフィンは、墜落機残骸の上空2000フィートで旋回していた。私は地上との高度をモニターし、横田までの位置関係を確認した。事故現場から横田までの緯度、経度、方向と距離を連絡した。墜落後、およそ20分で当局は墜落機残骸の位置をつかんでいたのだ。横田管制から、我々の現在地から約40マイルの厚木基地から、米海兵隊が救難に向かう準備をしてることを聞いた。1時間で到着できただろう。

[9]
副操縦士のゲーリー・ブレイは管制に「海兵隊に急ぐように伝えてくれ。もっとも生存者がいるかどうかは疑問だがね]といった。管制官からは「生存者はいない様子。了解」との返答があった。「ここからでは生存者がいるかどうか分からないのに、あんなこというんじゃなかった」とゲーリーは無線を外して私にそういった。当機は8時30分まで先回を続けた。そのとき、海兵隊のヘリコプターが救助に向かっているので方向を知りたがっている、といわれたので、墜落現場までの方位を教え、当機のレーダーで地上から空中までを探してみた。8時50分までに救援ヘリのライトを視認できた。ヘリは偵察のため降下中だった。

[10]
午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してきた。位置を少し移動して二人の乗員をホイスト(ウインチで吊り下げ)で地上に降ろすつもりでいた。われわれに、司令部に連絡してくれと頼んできた。私が司令部に連絡を取った。

[11]
将校は「直ちに基地へ帰還せよ」「日本側が向かっている」といったので「司令部、海兵隊は救助続行をきぼうしている」といったが、「繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様」と命令された。私は「了解。基地に帰還する」と応答した。

[12]
ブレイは渋々そのことを海兵隊に知らせた。海兵隊も了解しており、引き上げ始めていた。われわれの到着から2時間経過した午後9時20分に、最初の日本の飛行機が現れた。管制から日本の救難機だとの知らせを受けた。日本側が現場に到着したことで、安心してその場を引き上げた。もっとも、我々の燃料もほとんど使い果たしていた。

[13]
横田基地に引き返し、着陸後直ちに司令部に報告するように指令を受けた。我々を待っていたのは、第861戦術飛行隊副司令官、ジョエル・シルズ大佐であった。グリフィン機長が経過を簡単に報告した後、大佐は「ご苦労だった。今回のことについてマスコミには一切他言無用」といった。

[14]
われわれは、緊張を強いられた17時間にも及ぶ飛行を終え、休息をとるために飛行中退のビルに向かった。そのとき、日航123便が満席に近い500人以上もの乗客を乗せていたことを日本のテレビを見て知った。起こった事故の大きさに驚き、声も出なかった。スケジューラーが翌日の午後、一週間の任務で沖縄へ出発するようにとの指令をわれわれに伝えたので、その静寂が終わった。乗務員はそのまま放置されたが、そんなことは通常ないことであった。

[15]
翌日のニュースや新聞を見て、われわれは愕然とした。ニュースは、日本の捜索隊が墜落地点を発見するのが、いかに困難をきわめたかを伝える報道で溢れていた。事実、まだ事故機残骸に到着していなかった。私はすぐに地図のところへ行って昨日の航跡を確認した。私には正確な位置を示した、という自信があった。私は海兵隊のヘリコプターに墜落地点までの飛行を無線で誘導したのだし、日本の救難機が墜落現場上空に到着して旋回しているのを確認した後に、帰還したのだから。あの事故機発見がそれほど困難をきわめるような問題が日本側にあったのだろうか?

[16]
墜落から2週間たって、タイの首都、バンコクにいたとき、私は墜落の写真が表紙になった『タイム』と『ニューズウィーク』を買った。これで4人の生存者がいたことを初めて知った。4人のうちの落合由美さんの記事を読んでゾッとさせられた。彼女は墜落後、意識があったときのことを語っている。残骸の下で動けなかったが、彼女はヘリコプターを発見し、手を振って合図したが、すぐには返答がなかった。「次第に私は眠くなった」「気がつくと男の人の話し声が聞こえ、もう朝だった」と彼女はいっている。

[17]
落合さんはまた、看護師に、数人の子どもたちの声を聞いたが闇の中でその声は次第に途絶えていった、と話している。私は打ちのめされたような気がした。海兵隊が吊り上げによる救助を許可されていたならば、さらに数人の生存者を救出できたのにと考えざるを得なかった。海兵隊のヘリコプターは、落合由美さんが見つけられるところまで接近していたのだ。

[18]
『ニューズウィーク』誌によると、日本の当局は、捜索開始命令が午後9時30分まで出されなかった、と述べている。(しかし)その時刻はわれわれが墜落地点を確認した2時間後だった。最初の日本のヘリコプターが現場にやっと到着したのは、翌日の午前4時40分だった。午前7時15分になって日本の捜索隊は、警察(自衛隊のこと)のレンジャー部隊をヘリコプターで吊り下ろすことを決断した。海兵隊のヘリコプターが同じことをやろうとして許可されなかったときから、11時間もたってのことだった。

[19]
こういう大惨事での米国の役割については、『タイム』や『ニューズウィーク』誌でも、われわれのC130や海兵隊の行動を報道することはなく、記者たちは日本の当局が公表したことを鵜呑みにしている。『ニューズウィーク』は、日本のF4戦闘機が午後7時21分に山の中の炎上地点を確認したと伝えていた。当時の日本はF4を持っていなかったし、在日米軍基地にもF4は配備されていなかったという事実を除けば、これはよくできた話である。

[20]
また『タイム』は、日本の航空自衛隊が派遣した2機の航空機が、炎上地点を確認したと伝えている。このことは、午後9時30分まで捜索命令が出されなかった、という軍(自衛隊)の前述の言明と矛盾している。夜から朝にかけて、いったい何が起こっていたのだろうか。日本の救助隊は、墜落現場から42マイル離れた上野村に対策本部を設置しつつあった。後になって、日本の緊急事態対策問題に精通しているある人から、彼らが1機ではなく2機の米軍機が自分たちよりも2時間も早く現場に到着していたことに、びっくりしていた、と聞かされた。この人物は「日本の乗員は、あなた方が行ったようにとっさに捜索を実行するなんてことは絶対できないだろう」「彼らの救助活動のやり方といえば、マニュアルなど文字になっているものでしかできないのだ。しかし、あなたたち(空軍と海兵隊)はそれを見事にやってのけた」と私に語った。
(注意:42マイル(約65km)は4.2マイルの誤りか?)

[21]
私が日本に戻ってきたころには、この話は立ち消えになっていた。われわれ乗員たちは、ある連絡(承諾)を受け取ったが、われわれの期待とはずいぶん、かけ離れていた。われわれは、日本の新聞に残骸の写真を売るための空軍特別調査活動の任務にあった、ということにされた。しかし、この調査は、当然のことながらあっという間に終わった。なぜならフィルムを持っているものなどだれ一人いなかったし、写真を取れるような明かりも十分なかったのだから。そのうえ、マスコミは、われわれがそこを飛んでいたことなど、誰も知らないのだから、報道されるはずもなかった。

[22]
1987年3月、私は横田基地を離れ、サクラメントのマザー空軍基地で航法教育に携わる大尉として着任したが、そのとき、空軍表彰メダルを授与された。そこにはこう書いてある
「アントヌッチ大尉とその乗務員は、日航機の捜索を決定し、直ちに捜索計画をたて、墜落現場を発見し、救助隊を現地に誘導した」
私は空軍が私たちの行動を認めてくれたことは嬉しかったが、表彰を喜ぶ気になれない。私は「まだ、生存していた人たちを救出できなかった」と付け加えたかった。

「23」
日航123便事故は、実際二つの惨事がある。第一は墜落事故の衝撃で人々が死亡したことである。第二には、遺体収容を援助した医師たちの証言に表れている。つまり、もっと早く救助隊が到着していれば、負傷者、または致命的でなかった乗客を発見できただろうということだ。ある医師の証言は私の体の心まで震え上がらせた。彼は「もし、発見がもう10時間早ければ、われわれはもっと多くの生存者を発見できたであろう」といっている

——————————(ここまで)——————————

以上の証言に加え、米田氏が指摘する、アントヌッチ氏の3つの事実誤認を列記します。

1.[19]航空自衛隊は主要基地にF4E戦闘機を配備していたというのが正しい
2.[8] 米軍厚木基地には海兵隊の救難部隊はない。米陸軍座間基地のUH1ヘリ
 が救難に向かったのが正しい
3.[5]123便が横田基地への緊急着陸を求めていたような証言になっているが、
 123便は操縦に追われ横田からの呼びかけに応じきれなかったのが正しい
 →私は米田氏の3.の指摘は間違っていると思います。理由は次回以降に
  論証する予定です。
…….

JAL123便墜落事故、「アントヌッチ証言」英語原文全文
マイケル・アントヌッチ 「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」 1995年8月27日
jal123_michael-antonucci
Michael Antonucci “Pacific Stars and Stripes” August 27, 1995
1985 air crash rescue botched, ex-airman says

Had they not been ordered away, U.S. Marines could have been helping survivors two hours after JAL 123 crashed in mountains near Tokyo.

Michael Antonucci served in the Air Force from 1982 to 1990. He is currently managing editor of Inside California magazine in Sacramento, Calif. Reprinted with permission from The Sacramento Bee and Michael Antonucci.

BY MICHAEL ANTONUCCI
Special to Stripes

Ten years ago, on Aug. 12, 1985, Japan Airlines Flight 123 crashed into the mountains of central Honshu, resulting in the deaths of 520 people. It was the worst loss of life involving a single aircraft in the history of aviation.

A controversy arose because of the delay in getting to the wreckage by Japanese rescue workers. The plane had been down for 12 hours before the first rescuers reached the scene. In fact, had it not been for efforts to avoid embarrassing Japanese authorities, the first rescuers – a team of U.S. Marines – could have been searching the wreckage less than two hours after the crash. Four people survived. Many more could have.

I have a unique perspective of the aftermath of that crash. At the time it occurred, I was ordered not to speak about it. But on the 10th anniversary of the disaster, I feel compelled to tell what I saw and heard that evening as the navigator on a U.S. Air Force C-130 inbound to Yokota Air Base, 35 miles west of Tokyo.

I was a first lieutenant stationed at Yokota. At about 6:30 p.m. on that Aug. 12, we were approaching Oshima Island on a flight to Yokota from Okinawa. When we first heard the pilot of JAL 123 declare an emergency to air traffic control, we took little notice of it. In a C-130, you often declare an emergency, shut down an engine and land uneventfully. But at about 6:40, we heard the JAL pilot again. This time his voice was very agitated, and he was speaking to the controller in Japanese rather than English, the international language of aviation. This was a very unusual departure from standard operating procedure by the meticulous Tokyo controllers.

I discovered much later that JAL 123 had lost most of its rear stabilizer and a portion of its lower rudder. The aircraft was uncontrollable, the pilot, Capt. Masami Takahama, was attempting to steer and change altitude by throttle adjustments alone. JAL 123 had also experienced a rapid decompression – an emergency requiring an immediate descent. JAL 123 was in a no-win situation.

We switched frequencies to Yokota Approach Control and were advised to enter a holding pattern at Okura. While in the pattern, we heard Yokota Approach clear JAL 123 for landing at the base. At this point, we really began to pay attention. The in-flight emergency was so bad the airliner could not reach the destination. The pilot wanted to land at a U.S. military base – an extraordinary event.

Crash: Japanese took 12 hours to reach site

We heard Yokota Approach try to contact JAL123 with no success. They cleared us for an approach, but just after 7 p.m. advised us that radar contact with JAl 123 had been lost and asked if we could begin a search. We had enough fuel for another two hours of flying time. We headed north.

The tower did not have a good idea of where JAl 123 was last seen. We started out heading north-northwest as the sun was setting on that long summer day. At 7:15, the flight engineer spotted what looked like smoke under a cloud base at about 10,000 feet. We made a slow left turn and headed for it. The area around Mount Osutaka was very rugged. We received clearance to descend to roughly 2,000 feet above the terrain. It was starting to get dark when we spotted the wreckage. On the side of a ridge was a huge forest fire with a plume of dark smoke rising and obscuring the sky. The time was 7:20 p.m.

John Griffin, our aircraft commander, established himself in a holding pattern 2,000 feet above the wreckage. I monitored our terrain clearance and fixed our position in reference to Yokota. I passed both latitude and longitude coordinates and a bearing and distance from Yokota to the site. Roughly 20 minutes after the crash, authorities had the location of the wreckage.

Yokota Approach told us that a Marine rescue team was preparing to launch from Atsugi Naval Air Station, about 40 miles from our position. They would be there in an hour.

“Tell them to hurry,” said our co-pilot, Gary Bray, “but I doubt if there will be any survivors.” The controller replied, “Roger, no sign of survivors.” When Gary got off the radio he said to me; “I shouldn’t have said that. We can’t tell from here.”

We continued to fly an oval pattern until about 8:30 p.m. We were then informed that the Marine helicopter was on its way and wanted directions. I passed a general heading to them and configured my radar from ground to air. By 8:50 p.m. we had the helicopter’s lights in sight. They were going down to look.

At 9:05 p.m. the Marines radioed that the smoke and flames were too dense to attempt a landing. They were willing to move off a bit and have two crewmen rappel to the ground. They asked us to contact command post. While Bray spoke with the Marines, I radioed the command post.

“You are to return to base immediately,” the duty officer said, “The Japanese are on the way.” “The Marines want to go in, command post,” I told him. “Repeat, you are to return to base immediately, and so are the Marines,” he ordered. “Roger, return to base,” I replied.

Bray reluctantly passed the news to the Marines, who acknowledged and began to climb away. At 9:20 p.m., two hours after our arrival, the first Japanese aircraft arrived on the scene. Approach Control confirmed for us that it was a Japanese rescue plane. With the Japanese on the scene, we felt safe leaving. Besides, we had just about used up our fuel.

We turned back to Yokota and landed with the message that we were to report to the command post immediately. Waiting for us was the deputy commander of the 816th Tactical Airlift Group, Col. Joel Sills. After Griffin gave him a short recap of our actions, Sills said; “You guys did a fine job. You are not to talk to the media about any of this.”

We headed over to the squadron building to check in, our last stop after a stressful 17-hour crew day. It was only then that we discovered from Japanese television that JAL 123 was a modified high-capacity passenger plane with more than 500 people aboard. The enormity of what had happened struck us then and it got very quiet. The silence was broken when the scheduler told us that we were to leave the next afternoon on a week-long mission to Okinawa. The crew was left intact, which was unusual.

Watching the news and reading the papers the next day baffled us a bit. The news was filled with reports about how the Japanese had had difficulty finding the site and in fact had yet to reach the wreckage. I immediately went to my chart to check my work. I was confident that I had given the right location. I had vectored the Marine helicopter to the spot. And we left the Japanese aircraft circling over the area. How could they have trouble finding the wreckage?

Two weeks after the crash, while in Bangkok, Thailand, I bought copies of Time and Newsweek with pictures of the crash on the cover. It was the first time I had read there were four survivors. I was horrified to read the account of Yumi Ochiai, one of the four. She described being conscious after the crash. Pinned down by wreckage, she saw a helicopter and waved. There was no immediate response. “Gradually, I slept,” she said. “I heard men talking, and it was morning.”

Ochiai also told a nurse that she had heard several children’s voices that gradually faded away during the night. I was frustrated and furious to think that had the Marines been allowed to rappel in, they might have saved a few more lives. The Marine helicopter had been close enough for Yumi Ochiai to see it.

According to Newsweek, Japanese authorities claimed that orders to begin a search did not arrive until 9:30 p.m., more than two hours after we had already spotted it. The first Japanese helicopter did not overfly the area until 4:40 the next morning. At 7:45 a.m., the Japanese decided that it would be a good idea to rappel a police ranger from a helicopter to the ground – almost 11 hours after the Marines had been denied permission to do so.

As for the U.S. role in this tragedy, neither Time nor Newsweek mentioned our C-130 or the Marines – but reporters accepted the version passed to them by Japanese authorities. Newsweek reported that a Japanese F-4 fighter plane spotted a fire in the mountains at 7:21 in the evening. A reasonable story – except that the Japanese had no F-4s and there were no American F-4s in Japan that day.

Time reported that two planes dispatched by Japan’s Air Self-Defense Force spotted the flames. This directly contradicted the military’s previous statement that they were not told to search until 9:30 p.m.

What was going on during the night and well into the morning? The Japanese rescuers were “setting up a base” in the village of Uenomura, 42 miles from the crash site, I was later told by someone familiar with Japanese emergency management that they were upset that not one, but two American aircraft had made it to the scene two hours before theirs.

“A Japanese crew could never have decided on the spur of the moment to go search the way you did,” this person said. ” And the rescue effort had to be organised according to the book, You and the Marines just went.”

By the time I got back to Japan, the story had died down. My crew did receive some recognition – but not what we expected. We were told we were under investigation by the Air Force Office of Special Investigation for selling photos of the wreckage to Japanese newspapers. The investigation, of course, was short-lived because no one on board had any film to sell, nor would there have been enough light to take pictures. Besides, the news media reports were evidence that no one knew we had been there.

In March 1987, after I had transferred from Yokota and was a captain giving navigation instruction at Mather Air Force Base in Sacramento, I received the Air Force Commendation Medal. The citation accompanying the award read in part; “Captain Antonucci and crew were diverted to search for a downed Japan Airlines flight, the worst Japanese aviation disaster in history. He quickly established a search plan, found the crash site and vectored rescuers to the scene.”

I was glad to have the Air Force acknowledge what we had done, but the commendation brought me no joy. I wanted to add, “No additional lives were saved.”

The crash of JAL 123 was in reality two tragedies. The first was the deaths of those killed on impact. The second was described by doctors who helped retrieve the bodies. They found some whose injuries might not have been fatal had help come more quickly.

The words of one physician chilled me to the bone. “If the discovery had come 10 hours earlier,” he said, “we could have found more survivors.”

( Antonucci was assigned to the 345th Tactical Airlift Squadron at Yokota Air Base when JAL 123 crashed. In a telephone interview last week with Pacific Stars and Stripes, he said he had been told after the crash to refer all questions about it to public affairs officers. “Nobody ever told us why we couldn’t talk about it,” he said. The C-130 was carrying two extra hours of fuel because a Kadena Air Base ground crew had initially loaded too much, and with a typhoon evacuation in progress, the flight crew chose to depart rather than unload the excess fuel, Antonucci said. Antonucci said he has not kept in touch with his former flight crew. The Sacramento Bee said a Pentagon spokesman for the Air Force declined to confirm or deny Antonucci’s report, and the Bee said the Japanese Embassy in Washington did not respond to its requests for comment. )

http://newspaperarchive.com/jp/japan/tokyo/pacific-stars-and-stripes/1995/08-27/
http://newspaperarchive.com/jp/japan/tokyo/pacific-stars-and-stripes/1995/08-27/page-6
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在日米軍「記録は残っていない」
“USFJ has no records on crash”
http://newspaperarchive.com/jp/japan/tokyo/pacific-stars-and-stripes/1995/08-27/page-7
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日航ジャンボ機JAL123便墜落を報じる「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」 1985年8月14日
“Military on standby to help in JAL crash”
jal123crash
“Pacific Stars and Stripes” August 14, 1985
“Survivors found amid debris”
“JAL crash may be single-plane record death toll”
“Military on standby to help in JAL crash”
http://newspaperarchive.com/jp/japan/tokyo/pacific-stars-and-stripes/1985/08-14/
http://newspaperarchive.com/jp/japan/tokyo/pacific-stars-and-stripes/1985/08-14/page-2
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ロン・ヤス(ロナルドレーガンと中曽根康弘)
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「日本航空123便の御巣鷹山墜落事故に係る事故調査報告書についての解説」に対する日乗連の考え方
http://www.alpajapan.org/cp-bin/wordpress/wp-content/uploads/3f285fc5fe608bca063eb98f1c77a982.pdf
7ページ:
後に自衛隊の幹部がテレビ番組で、あの夜の現場への降下は「自殺行為」だと断言していますが、ではなぜすでに現場に降下しようとしている海兵隊に任せなかったのでしょうか。この不可解な問題は、御遺族の方々にとっては機内の風に関することよりも、もっと詳しく説明がほしいところでしょう。なぜ多くの助けられるべき命が見捨てられてしまったのか、当然「解説書」に触れられなければならない事だと考えます。遺体の回収を手伝ったある内科医は「もしも発見が10時間早ければ、われわれは、いっそう多くの生存者を見出す事が出来たであろう」と言っています。捜索救難よりも先に、人命救助に決定的なミスがあったと認めざるを得ないJL123便事故について、事故調査報告書も「解説書」も知らん顔をするべきではないと思います。
(中略)
運輸安全委員会が、本気で遺族や利用者国民の理解を得ようとするのであれば、再調査が不可欠です。事故調査報告書で間違いの多くみられるCVRの解読をやり直し、ずさんだった海底捜索を再度実施し、耳のつまり、有効意識時間、気温の影響、霧等について証明できる減圧実験を公開で行い、DFDRの記録を含むすべての情報を公開し、アントヌッチ氏の証言に正面から答えてこそ、遺族の疑問に答え、利用者国民の理解が得られるというものです。
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日航機墜落事故 遺体安置所 藤岡市民体育館
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【1985年8月12日】 日航ジャンボ機墜落 坂本九さんら520人死亡 航空史上最悪の事故

日航機事故遺族「心の支え」 会報「おすたか」
812
日航機事故遺族「心の支え」 会報「おすたか」100号
2014年8月7日 夕刊 東京新聞 TOKYO Web
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014080702000259.html
乗客乗員五百二十人が死亡した日航ジャンボ機墜落事故の遺族でつくる「8・12連絡会」の会報「おすたか」が、七月で百号となった。事故から二十九年。遺族は「悲しみを共有し、一人じゃないと安心できた」「今でも心の支え」と会報をよりどころとしている。

一九八六年二月に創刊。遺族から連絡会に寄せられる手紙や電話、連絡会の活動報告などを掲載している。当時九歳の次男を失った連絡会の事務局長美谷島邦子さん(67)を中心に当初は毎月一度、遺族らが仕事帰りに集まり、泊まりがけで作業をしていた。

現在は、美谷島さんが原案を作り、数人が目を通す方法で編集。発行ペースは年二回ほどに減ったが、手紙を基に文集「茜雲(あかねぐも)」も出している。東日本大震災などの災害や交通事故の遺族からの要望を受け、会報を送っているという。

創刊号は手分けして印刷し、墜落現場となった群馬県上野村の当時の黒沢丈夫村長(故人)が、慰霊碑の建設状況を報告。連絡会の会合内容などを盛り込んだ。写真はなかった。

事故から泣いてばかりいたという、夫の母と子ども二人を亡くした遺族は「皆さまのように強く生きねばと心より思いました。連絡会があることが心の支えで励ましです」と心境の変化を打ち明けている。

美谷島さんは、発行当初に「ポストから取り出して玄関に立ったまま読みふけった」という声が寄せられたと振り返る。ある親が何度も子どもの成長についてつづり、初対面の遺族に「大きくなったね」と声を掛けられることもあったという。

百号には、今年六月に遺族が日航安全啓発センター(東京)を見学する様子などをカラー写真で紹介。ほかにこれまで発行した会報の表紙も掲載している。

「『母がいてくれたら』と思ったことは数え切れない」。当時五十歳の母親を亡くし、今年に母親と同じ年齢になった女性は「三人の子も順調に成人している。本当は母にほめてもらいたいのだね」と長年募らせていた思いを記した。

妊娠中に夫を亡くした小沢紀美さん(58)は「悲しくてどうしようもなく不安だった時、何度も読み返した。今でも心の支えになっている」と寄稿した。

<8・12連絡会> 1985年8月12日、群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」に日航のジャンボ機が墜落した事故の遺族組織。同年12月に結成した。遺族が互いに支え合い、事故原因を究明し、空の安全を追求していくことを目的につくられた。前向きに生きるため、会の名称に「遺族」の文字を使わなかった。個別の補償問題には関与していない。美谷島邦子さんが結成当初から事務局長を務める。
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8・12連絡会
http://www.neverland.co.jp/8_12/
日航機墜落事故で亡くなった人の遺書とメモ書き
http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-isyo.htm
墜落日航ジャンボ機の乗客・乗員名簿
http://www.snet.ne.jp/milk32/123meibo.html
生存者の一人・落合由美さんの証言
http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-ochiai.htm
日航機墜落事故 東京-大阪123便 新聞見出しに見る25年間の記録
http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-index.htm
時事ドットコム: 日航機墜落事故 写真特集
http://www.jiji.com/jc/d4?p=jal123&d=d4_disaster
由美子へ・取材ノート – 宝塚プレシャス
http://astand.asahi.com/takarazuka/column_yumiko.html
気付いたらもう25年 日航ジャンボ機事故 2010/08/12 22:24 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201008/CN2010081201000624.html
腕時計など10数点を展示へ 日航と遺族合意、靴も要望 2008/07/12 19:17 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/200807/CN2008071201000674.html
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1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分