1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分

御巣鷹 30年の祈り 日航機墜落事故
「慶子は幸せに暮らしてるよ」 川上(慶子)さん遺族
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遺族、鎮魂のシャボン玉
慰霊登山でシャボン玉を飛ばす子どもたち
昇魂之碑の前(群馬県上野村) 2015年(平成27年)8月12日(水曜日)

1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分、東京(羽田)発大阪(伊丹)行の日本航空123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェット、機体記号JA8119、製造番号20783)が、群馬県多野郡上野村の高天原山(たかまがはらやま)の尾根(通称 御巣鷹の尾根)に墜落した。

群馬県多野郡上野村、
御巣鷹の尾根に建立されている昇魂之碑
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Cenotaph of the japan air flight 123 accident in osutaka ridge. (correctly ridge of mount Takamagahara) ”昇魂之碑” (shōkon no hi) It means monument of the ascending souls. also In this area first impact point. location Ueno Village, Tano, Gunma, Japan.

524人乗り日航機墜落 長野群馬県境で炎上大破
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夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書によると、乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名であった。

生存者7人発見 生きていた!
日航機残がい、山腹に散乱 群馬長野県境
吉崎博子・美紀子さん、川上慶子さん 少女ら4人も
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午前十一時ごろ、捜索隊は墜落現場で男一人女三人の計四人の生存を確認。
救出された女性三人は自衛隊の大型ヘリコプターで群馬県藤岡市内の病院に運ばれた。
男性は少年らしい。生存者はいずれも尾翼に近い座席に座っていた模様。
さらに午後一時過ぎには他に三人が機体にはさまれて重体でいるのが発見され、生存者は計七人となった。
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日テレ系音楽番組「ザ・トップテン」
渋谷公会堂から生中継中に緊急ニュース
堺正章 榊原郁恵 小林完吾
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日本航空123便墜落事故

日本航空JAL123便墜落事故とは
日航ジャンボ機123便墜落の犠牲者

著名人
坂本九(歌手)
北原遥子(女優・元宝塚歌劇団娘役)
中埜肇(阪神電気鉄道専務取締役鉄道事業本部長・阪神タイガース球団社長)
浦上郁夫(ハウス食品代表取締役社長)
塚原仲晃(医学博士・大阪大学基礎工学部教授)
辻昌憲(元自転車競技選手・シマノレーシング監督)
竹下元章(元広島カープ捕手)
藤島克彦(コピーライター)
緋本こりん(同人漫画家)
和田浩太郎(美容研究家、ミス日本審査員)

著名人の関係者
伊勢ヶ濱親方(現:清國勝雄)の妻子
吹田明日香(タレント)の母
ダイアナ湯川(バイオリニスト)の父(住銀総合リース副社長)ダイアナ湯川自身の出生は、事故から1カ月後。

など。

明石家さんまや逸見政孝、稲川淳二も当初は乗る予定だったが偶然搭乗を回避している。

さんまは当日、東京で「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)の収録後、当便で大阪へ移動し、当時レギュラー出演していた生放送番組「MBSヤングタウン」(MBSラジオ)に出演予定であった。だがたまたま「ひょうきん」の収録が予定よりも早く終わったために、123便をキャンセルし、ひとつ前のANA35便と推測される便で大阪に向かい難を逃れた。さんまは「ヤングタウン」では言葉を失うほどのショックを受け、内容をこの事故の報道特番に切り替える旨のみを話した。さんまはこの事故をきっかけに、新幹線で行ける範疇の場所(東京~大阪の往復など)へは飛行機ではなく新幹線を利用するようになる。

逸見は夏休み休暇に入り、実家のある大阪へJAL123便で家族揃って帰省するつもりであった。だが、「新幹線のほうが安い」という息子の太郎の助言と妻の晴恵が飛行機が苦手であった事から東海道新幹線へ変更し難を逃れた。

稲川は東京で番組の撮影終了の後飛行機で大阪へ入るはずだったがこの撮影に入る前からずっと体調が崩れていて翌日の朝一番の新幹線で大阪入りする事になり搭乗を回避している。またその番組のスタッフの一人で稲川の友人である和田浩太郎さん(36)はすぐにも別の用事で大阪に向かうために空港へ行き本来乗るはずの便ではない早く大阪に着くこの便の席が手に入りこの便に搭乗、事故に遭遇して亡くなってしまった。

逆に、坂本九は事故前から日本航空に対し不信感を抱いており、飛行機による移動の際には全日空の飛行機に乗るようにしていた。しかし、大阪で知人の選挙応援を行う仕事で向かった際、運悪くJAL123便しか席が取れなかったため搭乗し、マネージャーとともに帰らぬ人となってしまった。

また、JA8119が事故を起こす直前のフライトだった、福岡空港発羽田行のJAL366便にも、運輸大臣や阪神タイガースの選手が乗っていた。

一般客も例外ではない。事故当日、滅多に遅延が生じないはずの東京モノレール(当時、京急空港線は羽田空港内まで乗り入れていなかった)が何故か遅れ、123便に乗り遅れて結果的に助かった人がいた。

一方で、キャンセル待ちが成功して123便に乗り込み、結果的に命を落とした人もいた。

犠牲者には歌手の坂本九、元宝塚歌劇団の北原瑤子、阪神タイガース社長中埜肇、ハウス食品社長の浦上郁夫、コピーライターの藤島克彦ら数名の著名人や、甲子園球場で行われていた夏の高校野球を見に1人で搭乗していた小学生なども含まれている。

事故の前日には東京でコミックマーケットが開催されており、コミケ帰りに事故に遭った参加者や、当時絶大な人気を誇った同人作家緋本こりんもこの事故で亡くなっている。

墜落した日航ジャンボ機の左主翼。「JAL」の文字が見える
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群馬県上野村の御巣鷹の尾根で1985年8月13日、滝雄一さん撮影

日本航空123便墜落現場(尾根)における遺体収容
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4名の生存者が救助されたスゲノ沢
△:落合由美さん、□:川上慶子さん、○:吉崎博子さん美紀子さん母娘
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日本航空123便 墜落現場・写真集

スゲノ沢における遺体収容
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スゲノ沢 機体後部が滑落し山肌を削った
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当時、墜落地点は御巣鷹山と報道されたが、正確には高天原山系(たかまがはらさんけい)に属する無名の尾根であり、御巣鷹山の南隣に位置する。この尾根は後に、上野村村長であった黒沢丈夫によって墜落現場に最も近い御巣鷹山から「御巣鷹の尾根」と命名された。

日航ジャンボ機123便墜落現場 御巣鷹の尾根
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「1985年8月12日、520人の命が奪われた、日本航空・東京-大阪123便墜落事故。この事故で私の友人、大社町議会議員だった川上英治さん、奥さんで第二出雲市民病院・保健婦の和子さん、次女で荒木小学校1年生の咲子ちゃんを失ってしまいました。」(祝部幸正氏)
日航機墜落事故 東京-大阪123便 新聞見出しに見る25年間の記録

日本航空123便墜落現場 高天原山系の名も無き尾根
遠方に富士山が見える
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日本航空123便 墜落現場・写真集

八ヶ岳・横岳より見た秩父山地と墜落地点
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Crash site as seen from Mount Yoko, Yatsugatake

北奥千丈岳から望む高天原山(たかまがはらやま)
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Mount Takamagahara, Nagano and Gumma Prefectures, Japan

父も妹も直後は生存
助かった川上慶子さん話す 日航機墜落
「体が動かぬ」と父
母即死、やがて父 妹を励ましたが・・・
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パパは本当に残念だ
どうか仲良く 急速に降下中だ
河口さんが手帳に遺書

日航123便の乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機体の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いた。これらの遺書は、後に墜落現場から発見され、犠牲者の悲痛な思いを伝えている。

白井まり子さん(26)
大阪府豊中市。日本航空大阪支店。フライト時刻表の余白に、24字。
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恐い恐い恐い
助けて
気もちが悪い
死にたくない
まり子

日航ジャンボ機123便の機内の様子 遺族の小川領一さん提供
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日本航空123便墜落事故・落合由美さんの証言

元宝塚歌劇団の北原瑤子
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日航JAL123便墜落で犠牲となった

8.12 坂本九さん 墜落事故一ヶ月前 1985 7.05
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今だから話せる 妻の本音~日航機墜落事故から30年~
柏木由紀子さんの場合
1985年の日航機墜落事故では、歌手・タレントの坂本九も乗り合わせていた。9月9日には葬儀が行われ、妻の柏木由紀子さんが弔辞を述べた。30年経ってからの取材では、一緒にいられなかった自分を責め続けた、遺体の損壊のひどさなどに衝撃を受けてから慰霊の登山が出来ずにいたなどと答えた。
ザ・ノンフィクション|2015/08/09(日)放送 | TVでた蔵

1985年当時、阪神タイガースの中埜肇(なかのはじむ)社長が犠牲となり、阪神タイガースのナインたちもこの機体(JA8119)に直前のフライト(福岡発羽田行日本航空366便)で搭乗していたため、選手たちは大きな衝撃を受け、阪神タイガースは一時は大型連敗を喫し首位から陥落した。だがその後、バ-スなどの強力打線に加え、リリーフ投手陣も大車輪の活躍をみせ、1リーグ時代から約38年ぶり、2リーグ制になってから初の日本一を、阪神タイガースはこの年達成した。

墜落当日のJAL日航123便の飛行経路
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Route of Japan Airlines Flight 123

当日のJAL123便のフライトプラン:
羽田空港を18時00分に出発、離陸後は南西に進んだ後、伊豆大島から西に巡航、和歌山県串本町上空で北西に旋回、伊丹空港には18時56分に到着する予定であった。乗員乗客524人を乗せたJAL123便は、定刻より4分遅れの18時04分に羽田空港18番スポットを離れ、18時12分に羽田空港から離陸した。

機長:高濱雅己(たかはま まさみ、49歳・運航部門指導教官 総飛行時間12,423時間41分)
副操縦士:佐々木祐(ささき ゆたか、39歳・機長昇格訓練生 DC-8では機長として乗務 総飛行時間3,963時間34分)
航空機関士:福田博(ふくだ ひろし、46歳・エンジニア部門教官 総飛行時間9,831時間03分)
チーフパーサー:波多野純(はたの じゅん、39歳 総飛行時間10,225時間)以下女性乗務員11人
乗客は509人。

満席ジャンボ無残 帰省、出張 一瞬の暗転
夫は、父は、子は・・・ 苦悩の色深める家族
各地で多数の目撃者
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各地で多数の目撃者 日航ジャンボ機123便墜落
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東京都西多摩郡奥多摩町日原、青梅署日原駐在所の前田清志巡査長(二九)は、非番で交番裏を流れる日原川で釣りをしていて事故機らしい機影を目撃した。
「突然、上空でゴロッと雷のような音がしたので驚いて見上げると、巨大な飛行機が川下からこちらへ低空で向かって来た。私から見て右側の主翼をガクッと大きく落とし、斜めになってこちらへ落ちてくる感じで、『危ない!』と思った。飛行機はすぐ翼を戻して通り過ぎ、北西の方角の山並みに消えて行った」

埼玉県浦和市白幡八丁目、写真家吉岡功治さん(三四)は、マンションのベランダから西空をながめていたところ、突然、雲のすき間から太陽が差すようなオレンジ色のせん光を見た。双眼鏡でのぞくと、両側から青、真ん中から赤い光を発した大型機が北の方へ消えた。

長野県南佐久郡川上村、主婦中島初代さんが「埼玉方面から飛んできた飛行機が赤い炎をあげ、やがて黒い煙を残して南相木村の群馬県境に消えた」と110番。

別の主婦は「飛行機は南から北へ、左を下げるように旋回しながら三国山の向こう側に消えた。そのとたん『ドーン』という大きな音がして空が真っ赤になり、原爆のようなキノコ雲があがった」。

青梅署日原駐在所の前田清志・駐在員(58)
〈40〉日原見守る神々しい巨樹 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)2014年05月02日 05時00分
http://www.yomiuri.co.jp/local/tokyotama/feature/CO003931/20140502-OYTAT50022.html
警視庁青梅警察署地域第2係 日原駐在所・警部補 前田清志
Vol.27(2010年5月20日号掲載)
NEWS TOKYO 都政新聞株式会社 | 仕事に命をかけてシリーズ
http://www.newstokyo.jp/index.php?id=84
日原駐在所にっぱらちゅうざいしょ
東京都西多摩郡奥多摩町日原721番地(奥多摩駅からバス「東日原」下車約2分)
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/9/ome/04koban/22okutamatiku_ph.htm

垂直尾翼の大部分を失った状態で飛行中の日航JAL123便。
東京・奥多摩で山崎啓一氏が撮影。
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This photograph shows the plane as it looked after explosive decompression. The vertical stabilizer is missing (circled in red).

日本航空123便墜落の想像図。
垂直尾翼のかなりの部分が吹き飛んでいる。
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Japan Airlines Flight 123 – The tail partially disintegrates

123便は衝撃音発生から墜落までの間、破片を落としながら飛行していたようで、相模湾と墜落現場だけではなく、東京都西多摩郡奥多摩町日原(にっぱら)でも機体の破片が発見されている。その奥多摩町で撮影された写真によって、123便が垂直尾翼の大部分を失った状態で飛行していたことが初めて明らかとなった。

機体操縦が不可能になり、山岳地帯に向かう日航123便の様子を当時、東京・奥多摩で撮影した山崎啓一さんを取材。山崎さんは音がでかくて飛行機が見えたからビックリしたと述べ、飛行機も下降と上昇を繰り返していたと述べていた。
奥多摩(東京) | 最新解析!日航機墜落32分間の闘い(フジテレビ)2014/08/12(火)18:30 | TVでた蔵

日航123便の航跡図とボイスレコーダーの記録
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JAL123便は降下し続け、18時56分14秒に対地接近警報装置が作動。同17秒頃、機体はわずかに上昇し始めたが、18時56分23秒、右主翼と機体後部が樹木と接触した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は346kt (640km/h) に達していた。

接触後、水切りのように一旦上昇したものの、機体は大きく機首を下げ右に傾いた。26秒、右主翼が地面をえぐり、同時に機体の分解が始まった(垂直・水平尾翼、右主翼の脱落)。28秒には機体後部が分離。機体は機首を下げながら右側に回転してゆき、18時56分30秒、高天原山の斜面に前のめりに反転するように衝突、墜落した。

18時56分28秒まで録音され続けていたボイスレコーダーには23秒と26秒頃に衝撃音が残されていた。23秒の衝撃音の直前には、機長の「あーダメだ…」もしくは「もうダメだ…」とも聞き取れる叫び声も記録されていた。ボイスレコーダーに録音されていた音声は、後に活字で公表されたが、この叫び声は判読不能とされていた。

墜落時の衝撃によって、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほど大破したほか、両主翼も離断し、それぞれ炎上した。一方、28秒に分離した客室後部と尾翼は、山の稜線を超えて斜面を滑落していった。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速した。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまり火災も発生しなかった。

日航ジャンボ機墜落 救助される川上慶子さん
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日本航空 航空券 カワカミケイコ(川上慶子)
東京 → 大阪 123便 8.12 18:00
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85-08-08
….

-付き添い関係者への証言1-

・事故が起きたのは羽田離陸後、スチュワーデスがミッキーマウスのおもちゃを子供の乗客に配り始めたころ。

・機内後方上部でドーンという大きな音とメリメリという音がし、一・五メートル四方ぐらいの穴が開いて、プロペラの羽か扇風機の羽のようなものが舞い、機内は真っ白になった。

・墜落後、隣にいた父と妹も生存しており長い間(正確な時間は不明)話し合い励まし合った。

・最初「大丈夫」と言っていた妹が「痛い、痛い」と泣き、やがて声がしなくなった。

・母和子さん(39)は即死状態だった。

上記の証言は、肉親や関係者に対しての証言。8月18日までに解ったものである。

-付き添い関係者への証言2-

気がつくと真っ暗で油臭いにおいがした。子供の泣き声などがザワザワ聞こえていた。手や足を動かしてみると足の下には空間があってブラブラ動かせた。自分の体中を触ってみても、みんな付いており、「生きている」と思った。

みんなはどうなったのかと思い、叫ぶと父と咲子が返事した。母は答えなかった。「手や足を動かしてみ」と言われて足をバタバタさせると、靴が脱げそうになり左手を左足の方に伸ばした。足首がヌルヌルしていて「血だな」と思った。

父は私の右わきから下半身に乗っていた。手足は動いても体は動かない。「助けて」と父に言うと、「お父ちゃんも挟まれて身動きできない。助けてやりたいけど、どうしようもないわなあ」と言われた。父が動くと、おなかが死ぬほど苦しかった。「お父ちゃん、お父ちゃん、苦しい、苦しい。すごく痛い」と言っているうち、父はそのまま動かなくなった。

咲子に聞くと「お母ちゃんは冷たい。死んでるわ。お父ちゃんも死んでいる。」と答えた。左手をのばして触ってみるとやはり冷たかった。その後、咲子と二人でしゃべった。咲子は「苦しい、苦しい」と言った。「足で踏んでみたら楽になるかもしらんからやってみ」と言うと妹の足の音がした。妹はそれでも「苦しい、苦しい。みんな助けに来てくれるのかなあ」と言うので「大丈夫、大丈夫。お父ちゃんもお母ちゃんも死んでしまったみたいだけど、島根に帰ったら、おばあちゃんとお兄ちゃんと四人で頑張って暮らそう」と答えた。

突然、咲子がゲボゲボと吐くような声を出し、しゃべらなくなった。一人になってしまったと思い。その後、朝まで意識が消えたり戻ったりした。

ヘリコプターのパタパタという音で目が覚めた。目の前を覆う部品の間から二本の木が見え太陽の光が差し込んできた。「生きているんやな」と思った。何とか外に出て見つけてもらおうと思い努力した。父のシャツのタオル地が見え、腹の上に乗っている父を左手で押し下げた。そのとき、父のだと思って触った手を、上の方にたどると自分の右手だと分かった。

顔の上の部品の一部をつかんで横からはい出そうとしたが、二度三度するうち部品がずり落ち、顔とのすき間が狭くなった。そこで今度は両足を当てがい押し上げようと踏んばった。「中学になってから慶子は根気がなくなった」と、日ごろから言われていた言葉を思い出し、頑張った。人の気配がして「生きている人は手や足を動かして」と声がした。足をバタバタさせると人が近寄って来た。ボサボサの頭、ショートパンツで勘違いされたらしく、「男の子だ!」と言われた。

8月23日までに解ったもの。墜落直後から救出されるまでの約十六時間の状況を、付き添い関係者にさらに詳細に証言している。よくネットや書籍上で引用されているので、一番有名な証言ではないだろうか。

-群馬県警・関係者への証言-

最後列左端の60D座席にいた慶子さんの左側上方、最後部担当のスチュワーデスが離着陸の際に座るジャンプシート(乗員用座席)の斜め上にある天井パネルが外れ、一・五メートル四方ぐらいの穴が開いた、との証言。

上記の証言は、群馬県警の事情聴取や関係者との会話の中での証言である。機内の写真を見ながら「ドーンという大きな衝撃音の直後に壊れたのは、ここだった」と、天井に開いた穴の位置を特定した。

川上慶子さんの証言-JAL123便墜落事故29年目の記録-
http://jal123.blog99.fc2.com/blog-category-6.html
…….

JAL123便の座席表
川上慶子さんは最後列左端の60D席に座っていた。
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Japan Airlines flight 123 – seat plan

事故発生からちょうど29年にあたる2014年8月12日にフジテレビジョンで放送された特番で、生存した女性(夫、長男、長女、次女と搭乗し本人と長女が生還)が当時の状況を手記にしたため紹介されている。その中にあった新たな証言によると、乗客の幾人かは失神した状態だったという。

生存者の証言によると、墜落直後の現場にヘリコプターが接近したが、やがて遠ざかっていったという。また、報道機関としては事故現場を最も早く発見した朝日新聞社のヘリは、現場を超低空で飛行するヘリを目撃している。

事故機には多量の医療用ラジオアイソトープ(放射性同位体)が貨物として積載されていた。また、機体には振動を防ぐ重りとして、一部に劣化ウラン部品も使用されていた。これらの放射性物質が墜落によって現場周辺に飛散し、放射能汚染を引き起こしている可能性があった。このため、捜索に向かっていた陸上自衛隊の部隊は、すぐに現場には入らず別命あるまで待機するよう命令されたという。

1995年8月、当時123便を捜索したロッキードC-130輸送機に搭乗していた元在日アメリカ軍中尉が、事故直後に厚木基地のアメリカ海兵隊(のちに座間のアメリカ陸軍と訂正)救難ヘリを現場へ誘導したが、救助開始寸前に中止を命じられ、またその事実も他言しないよう上官から命令されたと証言した。

日本航空123便 JA8119の写真。ボーイング747SR-46 機体記号JA8119。1984年春 大阪国際空港(伊丹空港)にて撮影。JA8119は、1985年8月12日、墜落し大破した(日本航空123便墜落)。
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Photograph of JA8119, the Boeing 747SR-46 involved in Japan Airlines Flight 123, landing at Osaka International Airport (Itami),circa Early Spring of 1984. Photographer: Harcmac60

墜落したJAL123便の残骸
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Wreckage of Japan Airlines Flight 123, August 12, 1985.

羽田 – 伊丹線往路「日本航空123便(JL123)」という便名は、1985年9月1日のダイヤ以降に欠番とされたが、後にこの便名と対となる復路「日本航空122便(JL122)」も欠番扱いになった。

この子らは もう帰らない 夏空に消えた思い出
日航機事故にあった小中学生48人
ディズニーランド、科学万博、里帰り、最後の旅に
砕かれた未来の夢
先生・医者・歌手・甲子園マウンド・五輪選手・白バイ警官・デザイナー
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日航ジャンボ機墜落 遺体安置所
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【1985年8月12日】 日航ジャンボ機墜落 坂本九さんら520人死亡 航空史上最悪の事故

最終的な身元確認作業の終了までには、約4カ月の時間と膨大な人員を要し、最終的に確認できなかった遺体片は、同年12月に群馬県前橋市の群馬県民会館で執り行われた合同慰霊祭で出棺式が行われ、火葬に付された後に墜落現場に近い上野村の「慰霊の園」へ納骨埋葬された。

当時JALがスポンサーとなっていた長寿クイズ番組「アップダウンクイズ」の打ち切り、再放送中だった日本航空を舞台としたドラマ「スチュワーデス物語」の放映を中止するなどの自粛が取られた。当然、CMも自粛のうえ、看板等の広告も撤去された。
日本航空JAL123便墜落事故とは

日航ジャンボ機123便墜落から30年 川上慶子さんの兄思い語る
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「頑張ったね」妹に 日航機事故から30年 川上慶子さんの兄思い語る
東京新聞 2015年7月25日 朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015072502000130.html

一九八五年の日航ジャンボ機墜落事故で奇跡的に救出された川上慶子さん(42)の兄、川上千春さん(44)=島根県出雲市=が共同通信の取材に応じ「人並みでない環境に悩んだこともあった。今は兄妹とも家族を持ち幸せに暮らしている。妹には頑張ったねと伝えたい」と心境を語った。

今年は事故から三十年の節目となることから取材を受けることを決めたという。慶子さんについて、家族を目の前で失ったことや当時の取材で受けた心の傷が「まだ癒えてない」とも述べた。

日航機は八五年八月十二日夕に群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」に墜落。翌十三日、搭乗者の生存が絶望視される中で助け出された当時十二歳の慶子さんは日本中の注目を集めた。北海道旅行の帰りで、一緒だった父英治さん=当時(41)、母和子さん=同(39)、妹咲子さん=同(7つ)=が犠牲になった。千春さんは旅行に同行せず、自宅にいた。

千春さんは三十年の歳月を「あっという間だった」と語り、中学二年だった事故直後を「『慶子を支え、亡くした家族の分まで頑張る』と気負っていた」と振り返った。

世話に来る伯母たちに反発し、高校一年の冬ごろからは、両親のいないやり場のない気持ちで生活が荒れたと明かした。現在は妻、二人の息子、娘との五人暮らし。介護支援専門員として働いている。

昨年十月、高齢になった伯母らを連れ御巣鷹の尾根に登った。慶子さんも誘ったが「気分が悪くなるから」と同行を断ったという。慶子さんは八五年の入院時、「(事故直後、英治さんと咲子さんは)生きていた」と証言していた。千春さんは「つらい思い出が残る場所だろうから」と思いやった。

一方、千春さんによると、慶子さんは二〇〇二年、趣味のダイビングを通じて出会った男性と結婚。看護師の仕事を辞め、現在は息子二人と幼い娘の子育てに奮闘している。

自身の経験も踏まえ、東日本大震災の遺児らに対しては「ふさぎ込まず、周りに打ち解けることが大事かもしれない」と助言を送った。

■一問一答

-間もなく事故から三十年となる。心境は。

「あっという間。人並みでない環境に悩んだこともあったが今は家族ができて落ち着いた。兄妹とも家族を持ち幸せに暮らしている。三十年なので、最後に取材に応じようと思った」

-どういったことに悩んだのか。

「事故当時は『慶子を支え、亡くした家族の分まで頑張る』と気負っていた部分があった。一方で、両親のいないやり場のない気持ちを、世話をしてくれた伯母たちにぶつけてしまった。高校一年の冬ごろからは生活も荒れた」

-慶子さんの近況は。

「昨年十月、伯母らと御巣鷹の尾根に登った際に誘ったが、『気分が悪くなるから』と一緒に行かなかった。つらい思い出が残る場所だろうから仕方がない。心の傷はまだ癒えていないが、三児の母として平穏に暮らしている。この三十年、頑張ったねと伝えたい」

-あまりに過酷な体験だった。

「妹は家族を目の前で失ったほか、心身ともに弱る中、手加減なしの取材をされて傷ついていた。初めて御巣鷹の尾根に登った時の写真を見ると、落ち着いて慰霊もできないという表情をしている」

-千春さんにとって御巣鷹の尾根はどんな存在か。

「亡くなった家族の魂があるような気がする。二、三年に一度、家族を思い、島根県から車を走らせて向かっている」

-東日本大震災の遺児らに何を伝えられるか。

「私の場合、誰も気持ちを分かってくれないとふさぎ込み、どうしようもなくなった。周りに打ち解けることが大事なのかもしれない」
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2015.08.14 ノンフィクション作家 清泉亮インタビュー(2)日航と航空機墜落の村、陰で罵声浴びせ合う現実 剥き出しの村民たちの私利私欲
2015.08.15 ノンフィクション作家 清泉亮インタビュー(3)日航機墜落ドキュメンタリー番組のウソ シナリオに沿った撮影、感涙を誘うための編集
日航機墜落から30年…生存の川上慶子さん、子育てに奮闘
NHK NEWS WEB 日航機墜落30年で新資料

ロン・ヤス ロナルドレーガン 中曽根康弘
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ロン・ヤス会談 日の出山荘で歓談するロナルド・レーガンと中曽根康弘(昭和58年1983年)
日の出山荘は東京都西多摩郡日の出町にある中曽根康弘のかつての別荘
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President Reagan and Prime Minister Yasuhiro Nakasone having lunch at Nakasone’s country residence in Hinode, Tokyo, Japan in 1983
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日航ジャンボ機墜落事故、「アントヌッチ証言」英語原文