日航123便墜落と中曽根康弘

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” 中曽根康弘首相は、八月八日の夜から夏休みのため軽井沢の「ホテル鹿島の森」に滞在していた。十七時十一分発特急あさま22号に乗車して、十九時十五分に上野着となっている。日航123便が十八時五十六分に御巣鷹の尾根に墜落した時は、列車内にいたことになる。自衛隊の公式発表では、墜落後の十九時一分にファントム二機が茨城県の百里基地から飛び立ち、二十分経過後に墜落現場上空で燃えている炎を確認している。中曽根首相はどこで日航機の情報を得たのだろうか。なお、上野駅からパトカーの先導で、十五分ほどで到着するはずの首相公邸に十九時五十分到着(八月十三日付読売新聞)とある。どこかに寄り道をしていたのだろうか。公邸入り口で記者団から墜落のニュースを聞き、「ほう、そうなのか」と答えて事故を知らなかったということだが、ご自身の本『中曽根康弘が語る-戦後日本外交』(2012年・新潮社)では次のように書かれている。

『日航ジャンボ機墜落の報告が私に届いたのは、軽井沢から東京に戻る列車の中で午後七時過ぎでした。それで八時頃から首相官邸の執務室に入って、即時に色々な報告を受けたし、こちらから対策の指示も出した。国民に対して政府の正式見解を出すのは、事態の調査に遺漏のない状態で、万全を期してから発表しなくてはいかん。それまでは、私に留めて、私が合図するまでは公式に発表してはならんと指示しました』

当然携帯電話がなかった時代であるから、列車内にある連絡電話を利用して知ったということだった。当時の「ほう」というポーズはカムフラージュだったということになる。

(中略)

合図するまで公式発表をしてはならん、という判断もおかしなことである。半官半民とはいえ、航空会社の墜落事故という事実を公式発表するのは株式会社としての日本航空側である。なぜ、中曽根氏の合図が必要なのだろうか。 ”

– 青山透子 –

64~65頁 『日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』(河出書房新社)
著: 元日本航空客室乗務員 青山透子

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日航123便墜落の新事実 : 青山透子| 河出書房新社
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309025940/
「日航123便墜落―遺物は真相を語る・天空の星たちへ」公式ブログ
http://tenku123.hateblo.jp/
青山透子(著) 日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る 単行本 – 2017/7/17
https://www.amazon.co.jp/dp/4309025943
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酸素マスクをつける乗客 墜落前の日本航空123便 1985年8月12日

” バーンと音がした後の機内で、スチュワーデスが冷静に酸素マスクを口に当てて、通路に立ち、乗客に付け方を教えている写真である。乗客の皆さんの背中が写っているが、皆半袖姿で毛布もかけず、さほど寒そうには見えない。上部の荷物収納扉もそのままで、物も飛び散ってはいない。「これは急減圧がないように見える機内の写真ですが、どうですか。事故原因の急減圧があったとは思えない風景だと思いますが、いかがでしょうか。しかし、事故調査委員会はこの写真を証拠としてはまったく取り上げませんでした。(以下略)」 ” ( 96頁 『日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』 青山透子(著) 河出書房新社 )
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日航ジャンボ機123便 1985年8月12日

” 「次はこの窓の外を写した写真ですが、ご存知でしたか。相模湾の向こうに富士山が見えて、飛行機の翼の先が写っています。おそらく窓から外の風景を写したのでしょうが、他の写真に比べて、一枚黒い点のあるものがあります。この黒い点に見えるものですが、その前後の同じような風景写真を見てみると、黒点がありません。つまり、窓のシミでもなければ、ごみでもないことがわかります。そこで、知り合いの研究者に頼みまして、画像専門の解析をする研究所で拡大分析をした結果、黒点をだんだん大きく拡大するとオレンジ色になることがわかりました。その写真がこれです」 ” ( 96頁 『日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』 青山透子(著) 河出書房新社 )

” 「このオレンジ色の物体ですが、画像専門家によると、向こう側に熱の波動が見えることから、何らかの動力によって物体がこちら側、つまり飛行機側に向かって飛んできていると推定されるということでした。具体的に見ていくと、黒点に見えるものは中心から右への帯状、または扇状になってオレンジがかっているそうです。その形ですが、円錐か円筒状のもので、この写真は正面から、若干右斜めからとらえた、という感じでしょうか。また、このオレンジ色はシルバーの物体が夕日を浴びて輝いているかもしれない、そういう分析結果でした」 ” ( 97頁 『日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』 青山透子(著) 河出書房新社 )

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” 「それはですね。機体の左下のお腹です。飛行機の後ろの少し上がり気味の部分、おしりの手前くらいでしょうか。貨物室のドアがあるような場所、そこが真っ赤に抜けたように見えたんです。一瞬火事かな、と思ったけど、煙が出ている様子もない。ちょうど垂直尾翼のあたりがグレー色でギザギザのしっぽみたいだったので、それが煙に見えたけど・・・・・・、煙ならたなびくけど、それは動かなかった。今思うと、千切れたしっぽのギザギザが煙のように見えたんですね」

(中略)

「そのお腹の部分、つまり飛行機の左側のお腹の部分、四~五メートルくらいになるのかなあ。貨物室ドア二枚分ぐらいの長さでしょうか。円筒形で真っ赤。だ円っぽい形でした。濃いオレンジ、赤という色です。夕日を浴びて赤い、という感じでもない。夕日は機体の背を照らしていたので、逆にお腹はうす暗く見えました。円筒形のべったりとした赤色がお腹に貼り付いているイメージ、言葉で伝えるのは難しいけど。絵に描くとこんな感じかなあ」

(中略)

その機体を見た後、いつもどおりの道を車に乗って帰宅途中、今度は目の前を飛ぶ二機のファントム(F-4EJ)を見た。時間は先ほどのジャンボジェット機を見て五分くらい過ぎてからだという。田舎なので高い建物はなく、突然視界に入ってきた。浜松の方向、西の位置から飛んできたと思われるファントム二機はジャンボジェットが飛び去った方向に向かい、それを追うようにして、今では新東名(第二東名)高速道路の方向、山の稜線ギリギリの低空飛行で飛び去っていった。時間は十八時三十五分頃である。まだこの時点で日航機は墜落していない。しかも公式発表で十九時五分に出動となっているファントムが、すでに実際に飛んでいたことになる。

小林さんは子どもの頃から近くにある航空自衛隊第十一飛行教育団静浜基地のこどもの日イベントや航空祭で、よくブルーインパルスなどを見ていたという。航空祭の前日にはいつもいろいろな飛行機が飛んできていたし、ファントムの展示もあったのですぐわかった。ファントム二機は少し斜めぎみに頭をあげた状態で飛んでいった。

「場所は大洲中学校あたりの道路を西に向かって走行中に見えてきました。ずいぶんと低い高度で北の方向に稜線ギリギリで飛んでいった。日航機の飛び去った方向でした。その後、家に着いたのが十八時五十分より前だったので三十五分頃に見たのは間違いない。きっとニュースで放送されるから見なくっちゃって思いながら帰りました。そして家に着いたらまだ七時のNHKニュースが始まっていなかったので、時間はよく覚えています」

(中略)

それにしてもべっとりと貼り付いたように見えた真っ赤な火事のように見えるオレンジ色のものとはなんだろうか・・・・・・。

だ円や円筒形のような形で、まるで絆創膏を貼っているように見えたそうだ。そうなると、五分後に追尾していったファントム機の乗務員もその物体をしっかり見たであろう。そしてそれをどのように理解し、どのような報告をし、どのような命令を受けたのだろうか。

ファントム機が追尾したならば、それによって墜落地点が早急にわかり、すぐに生存者を救出することが可能となろうが、小林さんが子どもの頃から身近に感じて信頼してきた自衛隊のお手柄。という結果にはつながらなかった。

目撃者にとっては救助をしてくれたと思って安堵した存在であったファントム機が、なぜ公式記録には出てこないのかもいまだに不思議な話である。 ”

“ファントム二機と赤い物体の目撃者”
105~109頁 『日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』 (河出書房新社)
著: 元日本航空客室乗務員 青山透子
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“穏やかな山間部でも、事件や事故は起きる。1985年の日航ジャンボ機墜落では、爆音を響かせながら頭上を低空飛行する事故機を山中で目撃した。”

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1985年8月12日に、爆音を響かせながら頭上を低空飛行する日航ジャンボ機を目撃した、警視庁青梅(おうめ)署日原(にっぱら)駐在所の前田清志警部補 (読売新聞2018年平成30年4月4日)

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オレンジ色 赤色 機体 日本航空JAL123便 JA8119 東京・奥多摩上空 1985年8月12日
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” もう一つの疑問、ファントム二機についてであるが、これも墜落前の時刻に自衛隊員によって明確に記述された目撃情報がある。

群馬県警察本部発行の昭和六十年十月号『上毛警友』という冊子は日航機墜落事故特集号として、警察関係者のみならず救助や捜索に関係した、医師、日赤、報道、地元消防団、ボランティアなどあらゆる部署、現場の人々の手記が掲載されている。表紙は生々しい煙が立つ上野村の墜落現場の写真である。それぞれが経験した「あの日」のことが書いてあり、仕事や役割とはいえ、これほどまでに大変な思いをして任務にあたったのかと本当に頭が下がる思いで読んだ。

その一二二ページに『日航機大惨事災害派遣に参加して』というタイトルで、自衛隊第十二偵察隊(相馬原)の一等陸曹、M・K氏の手記がある。その出だしを読んだ時、これは確実な目撃情報だと確信した。

「八月十二日私は、実家に不幸があり吾妻郡東村に帰省していた。午後六時四十分頃、突如として、実家の上空を航空自衛隊のファントム二機が低空飛行していった。その飛行が通常とは違う感じがした。『何か事故でもあったのだろうか』と兄と話をした。午後七時二十分頃、臨時ニュースで日航機の行方不明を知った。これは出動になると直感し、私は部隊に電話をしたが回線がパンク状態で連絡がつかない」(原文ママ、以下略)

(中略)

小林さんが語ってくれた静岡県藤枝市上空を十八時三十五分頃にファントム二機が通過したという目撃情報と一致する。したがって、明確にしておかなければいけないことは、まだ明るい墜落前に航空自衛隊では日航機を追尾して飛行状況を確認した。さらに墜落するその時までしっかりと見ていた、という事実である。もはや墜落場所が一晩中特定できなかったという言い訳は当然ながら通用しない。

問題なのは、なぜ墜落前に飛んでいたファントム二機の存在を隠し続けているのか、ということである。 どうしてもそうしなければいけない理由があったとしか考えられず、それがこの事故を事件ではないかと感じた理由である。 ”

“ファントム二機と赤い物体の目撃者”
111~112頁 『日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』 (河出書房新社)
著: 元日本航空客室乗務員 青山透子
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” 子どもだけではなく、同時に大人も見ている場合が多かった。墜落前は、稲光やゴーという音、ドドドーンという音である。墜落前後は圧倒的にヘリコプターが複数、飛行機も複数飛んでいたことが目撃されている。それも全部『明かりをつけながら飛んでいる』『ライトをつけて飛んでいる』『いっぱい飛んでいる』という記述が多い。自衛隊や機動隊の車も多数山に登ってきている。注目すべき点は、墜落前の大きい飛行機と小さな二機のジェット機という記述である。この子ども(小学校五年生のH・H君)は具体的に目撃した時刻を書いている。 これが一体何なのか、非番の自衛隊員が見た時刻から割り出すと大きい飛行機が日航機、二機のファントム機とすると筋が通る。それを見たのは小学校五年生のH・H君である。”

『八月十二日の夕方、六時四十五分ごろ南の空の方からジェット機二機ともう一機大きい飛行機が飛んで来たから、あわてて外へ出て見た。そうしたら神社のある山の上を何回も回っているからおじさんと「どうしたんだんべ」と言って見ていた。おじさんは「きっとあの飛行機が降りられなくなったからガソリンを減らしているんだんべ。」と言った。ぼくは「そうかなあ。」と思った。それからまた見ていたら、ジェット機二機は埼玉県の方へ行ってしまいました。』(原文ママ、以下略)

六時四十五分という時間が具体的である。その後しばらくテレビを見ていたらニュースで墜落の報道があったということである。時間的にみると、墜落前であることからやはり大きい飛行機は日航機、小型ジェット機二機は公には発表されていないファントム二機だと考えると他の目撃情報とつじつまが合う。いずれもくるくると何回もまわって見えていた、ということだ。ただ、ドカンという墜落音は聞かれずキノコ雲なども見ていない。埼玉県の方へ行ったという記述からは、日航機墜落前に、百里基地へ戻っていったのだと推定される。

その他にも、小学五年生のS・M君は、ニュースでジャンボジェット機墜落報道があった時に、外で飛行機が追いかけっこしているぞ、と父親に言われて見たら、電気のついた飛行機が二機飛んでいた 、と書いている。こちらはニュース速報後であるから、これは公式発表のファントム二機の可能性が考えられる。当日、少なくとも墜落前に二機、墜落後に二機、合計四機のファントム機が飛んでいたということになるのではないか。 ”

“上野村小学校、中学校の文集が語る二百三十五名の目撃証言”
120頁、122頁 『日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』 (河出書房新社)
著: 元日本航空客室乗務員 青山透子
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” 目撃情報の重要な点を整理してみると次のようになる。

1 墜落前に大きい飛行機と小さいジェット機二機が追いかけっこ状態にあった。
2 真っ赤な飛行機が飛んでいた。
3 墜落前後、稲光のような閃光と大きな音を見聞きした。
4 墜落場所は上野村と特定できて報告したにもかかわらず、テレビやラジオでは場所不明または他の地名を放送し続けていた。
5 墜落後、多数のヘリコプター、自衛隊の飛行機、自衛隊や機動隊の車などを目撃した。
6 ヘリコプターは墜落場所をサーチライトのような強い明かりで照らしながら、多数行き来していた。
7 煙と炎の上がった山頂付近をぐるぐると回りながら何かをしている何機ものヘリコプターがブンブンと飛んでいた。

これで墜落場所が不明だった、当時は仕方なかったとメディアも政府も言い張ることができるのだろうか。逆に何らかの行為があったと思われてもしかたがない。 ”

“上野村小学校、中学校の文集が語る二百三十五名の目撃証言”
127~128頁 『日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』 (河出書房新社)
著: 元日本航空客室乗務員 青山透子
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(ロン・ヤス ロナルドレーガン 中曽根康弘)
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” 二〇一五年七月二六日付東京新聞『米政府、意図的に漏えい』の記事内容は、私にとっては既視感があった。記事では、一九八五年八月下旬にNTSB航空事故調査部の元幹部ロン・シュリード氏らが群馬県の墜落現場で修理ミスの痕跡を見つけて日本側に伝えたが、九月に入っても日本側が公表しないため、業を煮やした委員長のジム・バーネット氏の要請でロン・シュリード氏らがニューヨークタイムズ紙に情報提供をした、とのことである。ボーイング社全体の利益を損なわないよう、事故機特有の問題だということを早く明らかにして、当時の主流だった同型機(B-747)の安全性をアピールすることが狙いだったという。

それに関する当時の新聞を読むと、一九八五年九月八日付毎日新聞では、すでに先月二十七日の第一次中間報告発表以前に米国側から圧力隔壁修理ミスの可能性を通告されていたのだが、まずはフライトレコーダーとボイスレコーダーの解読が中心となり、まだ隔壁部分は十分に調べていなかったため発表は控えた、とある。第一次報告書にも隔壁のことは一言も書かれていない。しかしながら日本側には事前に一言の連絡もなく、いきなり米国紙で一方的に声明を出されたのは大変遺憾である、と日本側の事故調査委員会は不快感を示していた。

これを見ても、事故原因を米国側が意図的に先に出したことがわかってくる。墜落当初は、運輸省も何らかの力が外からかかった可能性も含めて考えており、山下運輸大臣もこれから一つずつ分析をするので長くかかると発言していた。しかしながら世論は一気に米国が出した後部圧力隔壁説に傾いていく。

それではなぜこの誘導的な方法で、最終的にあのような事故調査報告書となってしまったのだろうか。 ”

“事故原因を意図的に漏洩したのは米国政府という記事”
155~156頁 『日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』 (河出書房新社)
著: 元日本航空客室乗務員 青山透子
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” 29日にはインドネシアのライオン・エアーJT610便がジャカルタ沖に墜落して189人が亡くなった。真新しい飛行機で事故歴もないようだが、ようやくブラックボックスが回収されてこれから事故原因が解明されていくだろう。

当然のことながら、事故原因はブラックボックスのフライトレコーダーやボイスレコーダーを読み取り(これが2週間ほど)、解析分析(これが2か月ほど)を行ってから決まる。なのに、1985年の日航123便墜落の時は、まだ何も分析していない4日後の8月16日に、毎日新聞夕刊にてスクープ記事として、圧力隔壁破壊原因説が出た。

誰が、何の目的でこの事故原因を唐突に出したのか、そしてそれを出させたのか、当時は事故調の委員長でさえ当惑し、その後委員長は辞めた。このいきさつは異常であった。

この、いい加減なスクープ記事を書いたマスコミの人間、それになびいていった人達もプロではない。

どの分野においても、人の命を預かる仕事をしている人間は、プロとしての自覚を失ったときから崩壊が始まる。組織もそうだ。

JALもANAもプロ意識に欠けたパイロットが次々と出てくる事自体が問題だと感じる。そしてそれを許す環境にあることが大変遺憾である。 ”

JAL運行乗務員の大量飲酒逮捕におけるプロ意識のなさ 青山透子 2018-11-02
「日航123便墜落―遺物は真相を語る・天空の星たちへ」公式ブログ
http://tenku123.hateblo.jp/entry/2018/11/02/022954
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” もし、圧力隔壁説や垂直尾翼付近に不都合が発生したフラッター説などが事故原因だったとするならば、一晩中、墜落場所不明を放送し続ける必要はない。なぜならば、上野村の人々はあらゆる機関に墜落場所を報告していたからだ。また、関係者からの情報によると当日は習志野駐屯地の第一空挺団も待機命令で準備をしており、日頃夜間訓練も行っていたことから、実際に行ける状態であった。米軍の海兵隊は、人命救助を第一に考えてすぐさま行動を起こし、墜落現場の真上までヘリコプターでたどり着いていたにもかかわらず、「日本側が救助に行ったから」という命令が出ていることで帰還した。それを他言無用とはどういうことだろう。

しかしながら、日本側の救助の飛行機が来たという発表はない。もし自衛隊機が来たのであれば、墜落場所は特定されて、すぐ救助を開始していなければおかしい。しかし、上野村の子どもたちにも多数目撃された自衛隊のヘリや飛行機は、山頂で何かを上げたり下げたり、サーチライトを照らしながら何らかの作業をしていたという。

つまり、人命よりも優先させた何かがあったのならば、発表された以外の事故原因がなければ、辻褄があわない。 ”

“墜落場所不明という誤報とファントム二機の追尾”
160頁 『日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』 (河出書房新社)
著: 元日本航空客室乗務員 青山透子
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“墜落直後、川上慶子ちゃんは父・英治さん(41)や妹の咲子ちゃんと言葉をかわしたという。やがて二人は、慶子ちゃんが呼びかけても返事をしなくなってしまった。”

“吉崎さん母子は東京の実家で夏休みを過ごした後、慶子ちゃん一家は楽しかった北海道旅行の帰途、そして落合由美さんは大阪にいる夫に会い行く途中での事故だった。”

“夏は、まもなく終る。が、遺族、生存者にとって、85年夏、恨みの夏は、おそらくこの先、何年も終ることはあるまい。”
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川上慶子 日航ジャンボ機墜落 1985年(昭和60年) 8月12日 18時56分
(毎日グラフ 1985.9.1号)

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吉崎美紀子 吉崎博子 日航ジャンボ機墜落 1985年(昭和60年) 8月12日 18時56分

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落合由美 日航ジャンボ機墜落 1985年(昭和60年) 8月12日 18時56分

8月12日(日)日航ジャンボ機墜落(27年前) | 梅と桜と向日葵の幸せの会 2012.08.12 Sunday
http://plumcherryume.jugem.jp/?eid=671
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JAL123 SR Tokyo 1800 Osaka 1900

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搭乗前の記念写真 日航123便 羽田空港 1985年8月12日

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吉崎博子 吉崎美紀子 川上慶子 落合由美 JAL123便 1985年8月12日

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川上慶子

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落合由美

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『墜落の夏―日航123便事故全記録』吉岡忍 (著) (新潮文庫) 1989/7/27
https://www.amazon.co.jp/dp/4101163111
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生存者7人発見 生きていた! 日航機残がい、山腹に散乱

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“日航機墜落33年 遺族ら229人 黙とう 大病に負けず 父慰霊 ” (読売新聞2018年平成30年8月13日)

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“御巣鷹 記憶消さぬ 日航機墜落33年 妹一家犠牲 孫と慰霊へ” (読売新聞2018年平成30年8月10日)

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“御巣鷹 遺族ら祈り 日航機事故33年 会えぬ父へ 結婚報告 母の分も 家族6人で ” (読売新聞2018年平成30年8月14日)

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御巣鷹の尾根(高天原山の尾根)に墜落したJAL123の翼

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日本航空123便墜落現場の御巣鷹の尾根(高天原山の尾根)へと赴いた坂上忍と美谷島邦子さん
直撃!シンソウ坂上 日航機墜落事故から33年 9歳の息子が遺した“宿題”
2018年8月16日(木曜)午後9:55 「シンソウ!坂上」

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日航機墜落事故の知られざる悲劇…再現ドラマで描く悲しみと怒り
『直撃!シンソウ坂上 2時間SP ~日航123便からのメッセージ・33年目の真相~』のドキュメンタリードラマ フジテレビ
【出演】 財前直見 鶴見辰吾 富田靖子 谷花音 岡田浩暉 松井玲奈 他

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美谷島さんの息子・健くん 9歳 近鉄バファローズの帽子 コカ・コーラの瓶

美谷島邦子@ken9sai
https://twitter.com/ken9sai
御巣鷹山と生きるーポエム85812 (Author:美谷島邦子)
http://5891akatuso.blog10.fc2.com/
美谷島邦子 (著) 『御巣鷹山と生きる―日航機墜落事故遺族の25年』 – 2010/6/1 
https://www.amazon.co.jp/dp/4103254211
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高濱機長「羽田に戻ることを要求する」
東京管制「了解」
東京管制「これから日本語で話していただいて結構ですから」
高度6400mから2000mまで降下 JAL123便 1985年8月12日

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横田管制「Japan Air One Twenty Three 日本航空123便」
高濱機長「ジャパナ123 アンコントローラブル 操縦不能」
横田管制「こちら横田アプローチです。聞こえていたら応答してください」
高濱機長「これはだめかもわからんね」

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福田航空機関士「ジャパンエア― 123、リクエストポジション?」
管制官「熊谷から25マイルウエストの地点です。どおぞー」
管制官「Japan Air 123、こちらはいつでもレディ(進入可能)になっております」
管制官「なお、横田と調整して横田ランディング(滑走路)もアベイラブル(いつでも着陸可能)になっております」
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『524人の命乞い 日航123便乗客乗員怪死の謎』 小田周二 (著) 文芸社 2017/8/1
https://www.amazon.co.jp/dp/428618207X
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日航ジャンボ機墜落事故、「アントヌッチ証言」英語原文

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